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「究極のロードゴーイングカーを目指して」
9~10代目スカイライン開発責任者 渡邉衡三(1)

2008.8.29

「常に追われる存在であり続ける」



直列6気筒エンジンを搭載した最後のスカイラインとなるR34型のエンジンルームの前に佇む渡邊氏。スカイライン伝統の哲学が注ぎ込まれたそのエンジンは、現在でも名機として語り継がれている。


1957年に初代が登場してから、現在のV36に至るまで、
それはスカイラインがスカイラインらしくあるために、
ひとつの美学ともいえるフィロソフィーでした。

他車を常にリードする存在であるために、
新技術に代表されるハード面と、
意のままに気持ちよく操ることができるか
といった感性に訴えかけるソフト面の
両面への追求がスカイラインを支えてきたのです。


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日産自動車の岡本です。

今日からは、スカイラインの父、櫻井眞一郎氏の一番弟子とも言われた伊藤修令氏に次いで、開発主管(開発総責任者)を務めることになった人物へのインタビューをお届けします。

ご登場いただくのは渡邉衡三氏。
1967年に日産自動車に入社して以来、
櫻井眞一郎氏のもとスカイラインの開発に参画。
当時の直属の上司はR31、R32の商品主管の伊藤修令氏。
R32開発時には車両実験部に在籍し、スカイライン担当実験主担業務担当となる。
1992年には伊藤氏から商品主管のバトンを受け渡された田口氏から、スカイラインの商品主管のポジションを引き継ぎ、
9代目R33スカイライン、10代目R34スカイラインの開発を取りまとめを担当されました。

氏には櫻井氏や伊藤氏との開発時におけるエピソードや
クルマ作りに対する信念やフィロソフィー、
現行のV36スカイラインの印象などをお話いただきました。



ミレニアムジェイドと呼ばれる特徴的なボディカラーをまとったR34スカイラインGT-Rの最終限定バージョン、GT-R M-Spec Nur(ニュル)を前に往時を振り返る渡邉衡三氏。




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 長い直線を一気に駆け上がり、大小のコーナーを軽やかなフットワークで駆け抜けると、スカイラインは軽やかに身を躍らせた。タイヤが地面から離れ、宙を舞う。だが、姿勢に乱れはない。美しい着地の先には大きな操舵量を必要とする意地の悪い右コーナーが待っている。スカイラインは瞬時に鼻先を出口に向け、クリッピングポイントを越えると豪快にスピードを乗せていった。スカイラインがしたたかな走りを見せたのは、北海道・陸別にある日産の北海道プルービンググラウンドだ。



北海道は陸別に建設された車両実験施設、北海道陸別試験場の航空写真。角の取れた3角形がたに周辺を縁取るのが高速周回曲線路だ。各国のあらゆる路面状態が再現されている。


 705万㎡の敷地のなかに全長7.2kmのロードコースが造られている。完成したのは1992年夏だ。世界中の代表的な路面、例えばドイツの高速道路、アウトバーンなどを随所に再現し、雨が降るとスリップを誘う。ドイツのニュルブルクリンク・サーキットのようにアップタウンとブラインドコーナーが連続する過酷なテストコースなのだ。ここで10代目のスカイライン、R34型は鍛えられ、市販に移された。極限状態で走らなければ限界域でのスタビリティ能力やクルマの挙動変化は分からない。それを解析し、細かい改良とチューニングを加えることによって量産のスカイラインでは最大限の危険回避能力を身につけることに成功した。

 R33型スカイラインの開発主管を務めた渡邉衡三は、1967年4月、日産自動車に入社している。子どものころから飛行機が好きで航空機エンジニアを目指したが、上下Gに弱いことが分かって断念した。次に好きだった自動車に目を向け、日産に入社したのである。配属を希望したのはプリンス事業部だ。中島飛行機と立川飛行機の両航空機メーカーを母体とする旧プリンス自動車の開発スピリットに憧れ、志願した。配属された第一車両設計部第二車両設計課の実務面のリーダーは櫻井眞一郎である。直属の上司は伊藤修令だった。

「最初の仕事はエンジンマウントの設計です。リア側をFRP(註1)で設計しろ、と言われましたが、材料を初め機械工学の全知識を試され、不勉強だった新人には難問でしたね。櫻井さんは課題に対してどういう取り組みをするのか、見たかったのだと思います。図面にはエンジニアの全能力が表れるんです。材料や熱処理など、機械工学の全知識が必要になるので、基本を学ばせるためにFRPで設計しろ、と命じたのでしょう。しっかり勉強していないと、すぐにボロが出ます。根掘り葉掘り聞かれるから騙せないのです」
 と、渡邉は入社当時のエピソードを語る。



1969年2月に発売された初代GT-R。レーシングカーR380直系のS20型エンジンを搭載した同車は、サーキットで実に50勝という輝かしい金字塔を打ち立てた。渡邉氏はそのレース用サスペンション部品の設計を担当。


  仕事に慣れてくると、後にハコスカのニックネームで愛されるC10型スカイライン(3代目)1500と直列6気筒エンジンを積む2000GTのサスペンション設計を、伊藤の指導の下、担当した。この時期、伊藤は市販車だけでなくレーシングカー、ニッサンR381のサスペンション設計にも関わっている。その後継マシンが’69年の日本グランプリ制覇を目指したR382だ。アルミを多用したサスペンションの設計を、櫻井と伊藤から担当を命じられたのが渡邉である。

  また、渡邉が設計したレース用サスペンション部品をベースに青地監督が率いるチームが最適なセッティングを行い、幾つもの勝利をものにした。この設計が一段落し た’70年初春に鶴見の車両設計部に設けられた、ESV(先進的な安全設計の自動車)プロジェクト・チームの担当となる。ここでは車両計画とサスペンション設計を行った。3年ほどESVの 研究に従事した後、再び荻窪のシャシー開発チームに戻り、量産車の開発に携わっている。

「プリンス系乗用車やトラックなどのサスペンションを担当しました。忘れられないのは御料車(註2)の日産プリンス・ロイヤルのポンプを交換して納めたときの話ですね。初めて恩賜タバコを頂き、感無量でした。この直後にC110型スカイラインの回転数感応式パワーステアリングも設計しています」

 20代の働き盛りだった渡邉はスカイラインばかりに関わっていたわけではない。が、サスペンション設計以外にもいろいろなことを担当したことが後のスカイラインの開発に大いに役立っている。そして入社して10年を前に、本社勤務を命じられた。


つづく

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■プロフィール:渡邉衡三(わたなべこうぞう)
1942年大阪生まれ。1967年、日産自動車に入社。最初に配属されたのは車両設計部。以後、ESV開発、シャシー設計を担当。1990年から車両実験部へ加入。R32スカイラインでは実験主管を担当しR33、R34では商品主管(開発総責任者)となる。1999年よりNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)に出向し、2006年に引退。

註1:FRP
プラスティックの一種。通常のプラスティックは弾性(しなり)が少なく、強い力がかかると折れてしまう。そこで、折れ難くするためにプラスティックにガラス繊維などを混ぜて、剛性を上げた素材。Fiber Reinforced Plasticの頭文字をとったもの。


註2:御料車
皇族の使用する乗用車。

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